光があった。
どこから差しているのか分からない。空も地面もない暗闇の中で、青白い光だけが脈打っていた。
声がした。
聞いて。
感じて。
考えて。
何を、と問い返そうとした。
声は答えなかった。光が膨らみ、視界を覆い尽くした。
彼女は息を呑んで目を覚ました。
低い天井。薄暗い船室。鼻を刺す潮と木材の匂い。壁の向こうで波が砕け、床板がゆっくりと傾いている。
長い耳が、帆綱の軛みと甲板を走る足音を拾った。夢の声はもう聞こえない。
代わりに、すぐそばから男の声がした。
向かいに座っていた行商人が、心配そうに顔を覗き込んでいた。ひどくうなされ、汗までかいていたという。
彼女は額へ手を当てた。熱はない。船酔いとも違う。夢の内容は、目を覚ました端から形を失い始めていた。残っているのは三つの言葉と、目の奥に焼きついた光だけだった。
行商人はブレナンと名乗った。ヴィルブランドにはエーテライトが多いから、その影響かもしれないと、分かったような、分からないような説明をした。
彼女は返事をしなかった。
ブレナンは気を悪くした様子もなく、風に当たろうと甲板へ向かった。彼女も少し遅れて席を立った。もうすぐ着くというなら、船室に残る理由はなかった。
甲板へ出た途端、湿った風が顔へまとわりついた。
海はどこまでも続いていた。木々も、丘も、道もない。揺れる青い面の上に、自分たちの船だけが取り残されている。
ブレナンは、彼女の見慣れない装いを眺め、駆け出しの冒険者だろうと見当をつけた。力を求めているのか、名を上げたいのか、それとも富が目当てなのか。陽気に並べたあと、なぜ冒険者になったのかと尋ねた。
彼女は海から目を逸らさなかった。
問いは聞こえていた。
ブレナンはしばらく待ったが、それ以上は尋ねなかった。誰にでも秘密の一つや二つはある。そんなことを言って、ひとりで話を続けた。
やがて、船員の声が甲板を走った。
右舷に船影。海賊旗。
乗客たちは逃げるより先に、示された方角を見た。彼女も視線を向けた。波間を進む船の帆に、見慣れない印が翻っている。
沈められるだろうか。
陸はまだ見えない。船が沈めば、泳ぐことになる。
そこで彼女は、初めて気がついた。
——そういえば、海では泳いだことがない。
船員が、甲板にいる者たちへ船室へ戻れと怒鳴った。
もっともだ、と彼女は思った。
狭い階段を下りる間にも、甲板の上では号令と足音が飛び交っていた。船が大きく傾き、船腹の向こうで遠い雷のような音がした。彼女は壁へ手をつき、揺れに耐えた。
森の川なら、流れを見れば渡れる場所が分かった。岸までの距離も、水の下にある石の位置も読めた。
だが海には、目印になるものが何もない。
しばらくして、船員が海賊船の射程を脱したと告げた。船は速度を落とさず、風を受けて進んでいる。
逃げ切れそうだった。
それなら、もう考えることはなかった。
海賊船が追跡を諦めたなら、港も近いはずだ。ブレナンに誘われ、彼女は再び甲板へ上がった。
初めに見えた街は、まだ音を持っていなかった。
青い海の向こうで、白い建物が岩礁にへばりついていた。高い塔と大小の船。その間を、細い橋が幾重にも渡っている。
ブレナンは、あれがリムサ・ロミンサだと教えた。自由と富を求める者が集まる、海洋都市国家なのだという。
彼女は黙って眺めた。
船が港へ近づくにつれ、街は音を持ち始めた。
荷を運ぶ者の大声。木箱を置く音。鎖が石を引っかく音。遠くで金属を打つ、硬い音。無数の足音と、意味を結ばない人々の声。
長い耳が、落ち着かなげに向きを変えた。
森では、音には距離と方向があった。枝を踏んだのが獣か人か、水がどちらへ流れているか、目を閉じても分かった。
だがこの街では、石壁と海面が音を跳ね返している。近く聞こえるものが遠く、遠く聞こえるものがどこにあるのか分からない。
潮と魚と油の匂いがした。土も、苔も、草木の匂いもしなかった。
ごちゃごちゃした街だ。
岩にへばりつく白い建物と、その間を行き交う人々を眺めながら、彼女は思った。
巨大な蟻塚のようだ。
もちろん、口には出さなかった。
ブレナンはまだ、街の来歴を誇らしげに語っていた。
彼女にとって、そこは新天地ではなかった。
船が着く場所だった。
ただ、それだけだった。
巻末おまけ
